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「過剰医療の構造」特集に参加して

  • k.inaweofgaulle
  • 2023年12月23日
  • 読了時間: 15分

【コラム】 東京支部 / NPO法人 ヒトの教育の会 理事 医師 冨永晃輝

 

 表現者クライテリオン2023年11月号の特集「『過剰医療』の構造ー病院文明のニヒリズムー」に、「過剰医療研究をより良い医療に生かすために」と題して寄稿させていただいた。各分野で功績を残されてきた偉大な諸先輩方の末席に連ねさせていただき、大変な光栄であった。


 現代の医療にはいくつもの課題がある。事業規模40兆円、500万人が従事する業界であるから大きな問題をいくつも抱えていて当前であるとも言える。しかし、これだけ公共の高い医療が、専門的なリテラシーが求められるが故に、聖域化していて批判を受けにくい構造にあること自体が、課題である。

 その意味で、このような特集記事が組まれたことに大きな価値があると感じた。編集委員の皆様の勇気に改めて敬意を表したい。


 本来であれば、病・老い・死と向き合うことこそ最も個人の価値観が発揮される機会であったはずだ。過剰医療は、命を巡る意思決定、病や老いを背負いながら最期まで生き抜く生き方において、個人の自由を不当に脅かしている疑義を露呈している。


 私は、臨床の現場で働いていて医師の悪意に接したことはほとんどないため、患者の健康を毀損してもいいと思っている医師の存在には実感は湧かない。一方で、寄稿させていただいた論考に記したように「経営のために、患者の健康に悪影響を与えないと思われる選択肢の範囲内で利益のための診療が行われている」のは事実だろうと考えた。そこに悪意はないとしても、過剰医療によって不幸に陥っている患者は多くいるだろう。過剰医療研究をより良い医療に活かすためのプロジェクトは、今後も進めていかなければならない。


 藤井聡先生も、いくらか悪徳的な医師もいるだろうが、多くの医師が「目の前の患者の健康のことを思っていないなんてことはあり得ない」という言葉には「嘘はない」と受け止められ、そのうえで、「システムそのものが資本主義化していれば、真面目に仕事をすればするほど過剰医療化していくことだってあるわけです。悪事というのは必ずしも悪意に基づくわけではない」と指摘されている。この問題意識には、私は全面的に同感する。そもそも意思決定をより良いものに目指す時、意思決定を行う当事者の善意を疑えば、この試みは成り立たない。人間の意志はいくらか以上は状況依存的であると考え、より良い意思決定を行える状況を目指すことに、意思決定研究の醍醐味があると受け止めている。


 クライテリオン11月号では、過剰医療の構造を見立てることはできた。これは、第一歩である。500万人の医療者の働き方がどのように変わることで、1億2000万人の国民の運命がどのように変わっていくべきか?を描き提案することが次のステップになる。そこで、過剰医療研究が本当に医療を良い方向に導くための戦略を記したいと考えた。


 その実現のために、この論考では現代の医療の進むべき行末について考える上で重要になると思われる4つのテーマについて議論したい。


 その4つのテーマとは、

1)医療の健康至上主義

2)医療の無限発展

3)生権力の発達

4)コミュニティ・ホスピタル構想


である。


1)医療の健康至上主義


 物事には、目的と手段がある。医療の目的と手段を見直したい。我が国の医療の目的として最も有名なコンセンサスは、日本医師会が平成12年にまとめた医の倫理綱領であろう。

その第一項「1.医療の目的」には以下のように記載されている。


 医療の目的は,患者の治療と,人びとの健康の維持もしくは増進(病気の予防を含む)とされる。患者の治療はともかくとして,健康とは何かということになると,その答えは難しい。1948年,世界保健機関(WHO)は「健康とは,身体的,精神的そして社会的にあまねく安寧な(完全に良い)状態にあることであって,単に病気がないとか弱くないとかいうことではない」(Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity)とする『世界保健機関憲章』を示している。しかし,「身体的,精神的そして社会的にあまねく安寧な(完全に良い)状態にあること」となると,その判断は難しく,また今日では健康と疾病との境界がますます不明確になってきており,健康の基準を明確に示すことは困難であるといえよう。 


 医療の目標を、患者の治療・健康とすることは当然と思われる方もいらっしゃるだろうが、医療は他の目的のためではなく「健康」のために機能するものであるという認識は重要である。なぜならば、多くの人々にとって人生の目的は「健康」ではないからだ。人生の目的を貫徹する上で多くの場合、健康は前提となっている。そのため、人生の目的を達成するための健康の増進は、疑問を持たれずに受けいられやすい傾向にある。しかし、健康を犠牲にしてでも成したいこと、健康を毀損していると分かっていてもやめられないものも存在する。そうした場合に、医療は人生を助けるためにはそもそも機能しない業界であることを知っておく必要がある。医療は、より良く・より豊かに人生を生きていくためのツールであることを、医療者も一般の国民も肝に銘じておく必要があるだろう。

 

 しかし、この健康増進のための医療が肥大化することがある。それが入院するという人生の危機や、パンデミックなどの社会の危機である。この時、医療は肥大し、浜崎洋介先生が指摘したように「社会(人生)の全般的な校舎化・病棟化・獄舎化」しうる性格を有しているのである。入院中は、喫煙や飲酒といった健康に害となる行為は禁止されるように、治療(健康増進)が至上価値となり、健康増進に反する行為は一般社会においては許容される行為であっても禁止される。入院とは、健康を優先した生き方を行うという契約ともいえる。治療にあたる医療者、保健費を払う一般市民からすると、患者に健康を目指すことを求めるのは自然な感情だろう。治療を行いながら、一方で患者は不健康になる行動を繰り返していては、(集中)治療を行う意義は失われるからである。


 この健康に対するドグマティックな性格が社会的に露見したのが先般の新型コロナウイルス感染症のパンデミックであるが、医療界に意見を求めれば一般社会からすると過剰と揶揄されるような対策が提案されるのは当然の理であった。医療界が責任を問われるのは社会全体の幸福ではなく「新型コロナウイルス感染症」による被害の多寡であったからである。その意味では、過剰自粛や過剰制限があったとした場合、純粋に原理的に考えれば医療界・公衆衛生上の論理を、他の価値と比較して過剰に評価した政府や行政機関に政治的な責任はあるというべきであろう。私は、新型コロナウイルス感染症のパンデミックのパンデミックに携わった方と縁あってお話しする機会があったが、決して彼に悪意はなく、国民の健康と幸福のために貢献したいという誠意に満ちていたと感じたことは明記しておきたい。


 この構造は、「財務省」が経済状況に関係なく増税を企画し、緊縮財政を推し進め続けていることに重なっているようにも思われる。


 もっとも、人間は必ず死を迎える運命にあるため、如何なる時も健康であり続けようとすることは不可能である。この人間の運命に向き合い、健康以外の目的を中心に据えたのが「終末期医療(ターミナルケア)」である。終末期医療の目的は、健康ではなくQuoltiy of life(人生・生活の質)の上昇・保持である。本来ならば、全ての医療行為の目的は、健康よりも重要なQOLの上昇・保持にあるべきだろ!という皆様の叱責には、一人の医師として全面的に同意する。


2)医療の無限発展


 次に、医療の手段についてである。医療費の高騰の原因は一般的に高齢化に加え、高度化と高額化が知られている。これらは相乗効果を発揮して医療費の増加を推し進めている。


 

 厚労省保健局のまとめによると、医療費の伸び率には、医療の高度化が高齢化と互するほどに寄与していることが分かる。医療の高度化には、二つの特徴がある。一つは、高度化を目指す事業が良いこととされていることで、もう一つは製品が医療費(9割が公費)として購入されることである。開発を行う製薬メーカー・医療機器メーカーは競争原理・投資・増益の追求という資本主義の世界に身を置いている。彼らには、これまでよりも治療効果の優れた製品を開発し続けるというインセンティブが存在している。新たな製品は、仮に医療費を押し上げたとしても患者を健康をするために有用であれば、保健医療において取り入れられる。こうして、医療の高度化は無限に進むのである。


 高度化された医療は、健康に資するという理由で患者への提供が推奨されている。これは全くの善意によるものであるが、医療の発達によって過酷な治療・副作用に苦しむ患者だって増える可能性はある。より全身状態が悪い状況においても打てる手はあるという理由でハイリスクな治療が進められ、最期の時が「天寿の全う」ではなく「病気への敗北」に移行しているのも事実であろう。

 

 高度化した医療は、やらなければ最後を迎える患者に対して、「ハイリスク」であるがやってみる価値があると思われる治療の選択肢を提供し続ける。私は先進医療を提供する病院に勤めているが、先進医療を実現しようとする医療者のほとんどが強い正義感と患者への思いやりを持ち、ハードワークを自らに課している。私は、彼らを人間的に尊敬していると言って憚らないことは付言しておきたい。医療は高度化し続けている、このことを目的化しない豊穣な人生観とシステムが社会に必要であると思う。


 終末期と判断された場合、医療は患者のQOLを追求するが、終末期でなければ健康を第一に追求する社会システムと言える。医療の無限発展によって、患者の人生の価値が傷付けられるようなことはあってはならない。


3)生権力の発達


 美馬達哉先生の「セキュリティ技術が支配する社会」を拝読したときに、このような視点を含めて議論すべきであったと恥じた。生権力は、1)で述べた医療の目的(=「健康の追求」)の背後にある、医療を制限しているそのものであった。生権力とは、国民の生殺与奪を決定できる権力の派生として、生を管理し死・健康の毀損・公衆衛生上の荒廃を制限する権力である。災害対策のために大規模な公共投資や国民への教育を行うことも生権力の一形態と言えるだろう。健康を追求すること自体が問題では決してないように、生権力自体を好ましくないと捉えるべきではない。生権力のもつ多様な側面と柔軟に向き合うことが重要だと言える。


 現代は、医学的に治療不能な死以外の死は生権力によって問題視される。社会的に対応可能な公衆衛生上の課題は、行政権力の行使の対象となる。自殺自体は取り締まれないが自殺幇助は法律的な罪となる。医療を拒否することはできるが、医療者は、医療を受けなかった場合に死を含めどのような経過を辿る可能性があるのかを患者に伝えることを迫られる。


 患者が治療の継続を望まず、苦痛に耐えかねるなどの理由で死を望んでいても、死につながる積極的な選択を行うことは、基本的に禁じられている。これは、患者本人とその家族、医療者という当事者の中で同意を形成できていても禁じられている。また、延命治療を行わずに自然な最期を迎える尊厳死についても、その線引きが難しいことがある。先に述べたように、これから起こりうることを伝えた上での積極的な延命治療を行わないで尊厳死を実現することは可能であるが、呼吸器(酸素投与含む)・点滴などの医療行為を既に行なっている場合、尊厳死の実現のためにこれらの医療行為を人為的に止めることは、殺人に抵触する。


 臨床の現場における生権力の本質は、本人・家族・医療者の同意を以っても自由にできないところにあるだろう。予見できるリスクは対策することが求められ、予見できなかったアクシデントは検証することが求められる、万全の対策を打っても防げない死に近づくイベントだけが認められるというのが、生権力がセキュリティの上昇を促す構造である。美馬先生が指摘するように、セキュリティは技術化し、広く適応されるべきモデルとして社会全体に適応されて行く。セキュリティを突破することは、もはや個々の事例においてはほぼ不可能となる。セキュリティを突破することができずに、QOLの追求ができない不条理こそ美馬先生が指摘した生権力の顕現だった。セキュリティ技術もまた、医療の高度化によって高まり続けることは驚くに当たるまい。


4)コミュニティ・ホスピタル構想


 これまで、医療の進むべき行末を考えるために、「医療の目的」「医療の手段」、「生権力」、「セキュリティ技術の高度化」の視点から考えてきた。より良く・より豊かに人生を生きていくための医療のあり方を考察する上で、これらについて整理することが有用だと考えているからである。

 基本的に健康を第一目的として高度化し続ける医療は、生権力と結びつく形で患者や医療者の自由な意思決定を制限しうる。特に一度始めた治療・延命行為を止めることができないことや、健康を害しうるあらゆる行為(面会含む)が制限される、人生の最期のギリギリまで提示されるあらゆる治療の選択肢から意思決定をし続けなければならないことなどは、不条理として受け止められうることは少なくない。

 一方で、より一層の医療の発展を願い、より一層のセキュリティの強化を願い、最期まで選択し続けることを求める声が、医療者にも一般市民においても、決して少数派でないことは認識しておくべきである。


 医療は、健康を第一目的としている社会システムであるが、人生の最大の目的が健康ではない人はほとんどであろう。医療は、その目的を健康ではなく、患者の人生への貢献とすべきだろう。現状、このことを明確に掲げているのは終末期医療である。

 誰にでも運命として死は訪れる。死を大別すると寿命による死か、寿命以外の防ぐことが可能な死となる。どの状況を、寿命と呼ぶべきかは一流の医師にとっても大変難しい。この決定を医師が行うのはおこがましいと感じる医師もいるだろう。


 終末期医療に関わる医師である中村仁一氏は、ベストセラーとなった「大往生したけりゃ医療と関わるな『自然死』のすすめ」の中で、寿命による死=「自然死」の仕組みについて解説している。中村氏は、自然死の実態は「餓死」即ち「飢餓」と「脱水」であるという。そしてこの終末期における飢餓は、生命力が弱ったことで食事を受け付けなくなる生理的なものであって、一般の飢餓という非常に辛いものとは異なるとしている。飢餓では、「脳内にモルヒネ様の物質が分泌され、いい気持ちになって幸せムードに満たされると言います」とし、脱水では「血液が濃く煮詰まることで、意識レベルが下がって、ぼんやりした状態」になると、中村氏は述べている。さらに、死の間際になり呼吸状態が悪くなることで、「酸欠状態でモルヒネ様物質」が産生され、二酸化炭素が貯まることについては「炭酸ガスには麻酔作用があり、これも死の苦しみを防いでくれています」と述べている。


新庄徳洲会病院の笹壁弘嗣院長も病院のHPに類似の見解を述べている。


 人体がそもそも、死に抗う生理メカニズムだけを有しているのではなく、死に向かっていく段階に応じて苦痛を取り除く、死に合目的的なメカニズムを有しているのであれば、死を最期の時まで避ける延命的な医療行為は生命の原理に逆行していることになる。この死に合目的な生理メカニズムについての解釈は深化の余地があると思われるが、終末期において延命よりも重要なものがあるという見解は、一般的な終末期医療においても共有されているし、この衆知は国民の死生観を深めることに貢献するだろう。


 問題は、病気と闘うことを選ぶか寿命を全うすることを選ぶかの決断であると思われる。救急車を呼んで急性期病院に運ばれた場合、基本的には健康を目指す闘病が選択され、急性期治療ののちに慢性期の病院に転院され、結果として過剰医療に巻き込まれる可能性が高い。我が国の健康寿命は男性72.7歳、女性75.4歳、平均寿命は男性が81.05歳、女性が87.09歳とされる。この間をどう支えていくのか?健康に生きることと寿命を全うすることをできるだけ矛盾のない形で実現できないだろうか?


 これに対する具体的な解決策はないか?私が注目するのが、「コミュニティホスピタル」という医療の在り方である。(⼀般社団法人コミュニティ&コミュニティホスピタル協会HP https://cch-a.jp

 画像にあるように、コミュニティホスピタルはそもそも、患者の病気の治療=健康だけでなく、「人と人生」を診ていくことをコンセプトの中心に置いている。

 

 コミュニティホスピタル構想の特徴は、中小病院の提供する医療及び経営の在り方の指針を示していることにある。


 メディヴァ(※医療介護コンサルティング企業)は、「コミュニティ・ホスピタルをケアミックス型の発展形として位置づけ、『入院から在宅までを一連の流れとして広くカバーする』病院と定義」している。

 つまりコミュニティホスピタルを志向する病院は、漫然と入院させて療養医療を行うのではなく、患者・家族の希望に応じて、家庭や施設などに退院して在宅医療(訪問診療・施設の嘱託医による診療)や介護を受けられるシステムを充実させることを目指している。患者は、治療の場である病院ではなく、生活の場に身を置いて老後を生きることができるというメリットがある。

 また、訪問診療においては患者・家族と話し合い、ゴールを延命ではなく、「自宅で最期を迎えること」と設定することもよくある。この場合、緊急の入院は治療後に自宅に退院できることが見込まれる場合に限定される。退院の見込みがない場合は、在宅でできる範囲の治療を行なって回復しなければお看取りになるわけであるが、これは過剰な医療や延命治療を見事に回避して、本人や家族の意志を実現しているとも言える。

 このようなコミュニティホスピタル構想には、患者の人生の目標の貫徹を支えることを目指し、過剰医療や生権力から患者の生活を守ることができる可能性があると考える。

 さらに、日常的に病気を持ちながらも人生を豊かにより良く生きていくあり方を実現するために、患者と家族に予め重たい病に至った際にどのような生き方を望むを記しておくこと=Advanced care planning(ACP)が存在しているが、コミュニティホスピタルはこのACPの実施率の向上にも繋がるだろう。


 

 死は必ず全員に訪れるものである。死をネガティブに捉えるのではなく、人生の一環として、命の繋がりの中に合目的に捉えたいという願いは広く人類に共有されてきたのではないか。宗教は、死を永遠の救済や大自然に還ることのようにネガティブ捉えない境地を求めてきた。より深い検証が必要であろうが、人体には、死に至る生理的変化に適応し本人の精神を守るシステム=死に対する合目的なシステムが予め存在する可能性が示唆されている。死をいかなる時も避けるべき事象として捉えるのではなく、生命の合目的な過程として捉え、その支えとなる医療や家族のサポートを進めていく在り方には、多くの理解が得られるのではないかと思う。


 命への畏敬の念、医学的な理解・技術、社会システム、人生観などを高度に統合した先に、過剰医療を克服したより良い医療が実現していくために貢献したいと決意した。


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