top of page

「自由」とは、「運命」とは何だろうか

【コラム】 東京支部 田尻 潤子(翻訳業)


「自由」と和訳される英語にはfreedom とlibertyの二つがある。それぞれオックスフォード英英辞書で調べてみると、freedomは「妨害や拘束をされることなしに行動できる状態」、libertyは「独裁的・専制的な管理や支配からの解放」などとなっている。


この概念が西欧から日本にやってきたとき、福沢諭吉が「自由」(自らをもって由となす)と訳したということだ(※1)


文部科学省は道徳教材「心のノート」(※2)の中で「自由は、自分勝手とは違いますよ」「責任を伴うものですよ」と子供たちに教えている。それは誰もが常識的に持っている感覚・共通認識だと思うが、このような公共的・社会的な文脈とは別の角度から「自由」とは何かを考えてみたい。


昔通っていた、いや厳密にいうと「通う羽目になってしまった」教会は聖書の教えを厳格に守ろうとするところで、偶像崇拝、「たしなむ」以上の飲酒、独身男女の婚前交渉、占い、過度な暴力あるいは性的な描写を含む娯楽作品などあれこれ禁止事項があった。


心優しいが生真面目すぎる若い牧師はよくこんなことを言っていた:「クリスチャンになったら自由がなくなった、と不満に思うこともあるかもしれませんが、そもそもこうしたことをする自由があったところで、長い目でみて、それは真の意味で『自由』でしょうか。私たちは真理にふれることによって、ようやく自由になれるのです」。


牧師は「ヨハネの福音書」8章32節「真理があなたがたを自由にする」を引用していたのだが、底本の言語であるギリシャ語、および英語版をみると「解放する」のほうが適している。死ぬと魂が身体から離れることをイメージする人は、特定の宗教を信じているわけではない日本人にも多いと思うが、それを「解放」と考える宗教や思想は少なくない。しかし先に述べた例における「解放」とは、この地上に生きながら「魂の解放」「精神の解放」を経験することで、ヴェーダ哲学にも似たような考え方がある(インド人の友人が教えてくれた)。この身体があるからこそ人間はあらゆる欲(生存のための三大欲求だけでなく物欲や安全欲など全て含む)の「奴隷」になってしまうのだ(※3)、だから「自分は『肉の塊』以上のものである」ことを知らねばならない、というものである。この文脈での「真理にふれる」とはそういった意味だ。キリスト教でいうところの「神から離れている/神に背いている状態」、ヴェーダでいうところの「自分の本質が何なのかをわかっていない状態」は、それぞれ「罪」(ἁμαρτία)、「無知」(avidya)というが、究極的にはほぼ同じ概念だと私は思っている。いずれも、神から離れている状態で、自分は地上で完全に独立した単体の存在だという認識のうえで「自分で」「自分の好きなように」決めて生きることが「自由」なのですか?と問うている。


自分が大海の一滴であることに気づき、それを受け入れることで「自由になる」とはどういうことだろうか。ここで「運命」につながってくる。「運命を受け入れて生きる」(※4)というのは「諦め気分で生きる」と混同されやすい。私はここで両者のあいだに明確な線を引いてみようと思う。少々回りくどい言い方になるが、次のようになる。人生で進むべき道を「神」「天」「梵」(呼び方は人それぞれ)が人間一人ひとりに用意していて、たとえそれが思い描いていたものとは違っていたとしても、最終的には「ああ、これでよかったのだ」と思えるものになるはずだと信じて生きる(※5)ことは「諦め」(※6)とは異なる(ものと私は信じる)。このように考えれば、後で振り返ったときに「会社を辞めなければよかった」とか「あの人と別れなければよかった」などと思うこともなくなるだろう。「解放」にはこうした後悔や自己憐憫からの解放といった側面もあると私は思う。福田恆存の言葉を借りれば(「私の幸福論」より引用)、次の一行に集約される:


「私たちは、いつでも過去を顧みたとき、どうしてもかうせねばならなかつたと観念できるやうに生きたいのです」



いっぽう、上述の友人にとっての聖典である「バガヴァッド・ギータ―」には次のように書いてある(3章35節/田中𡢃玉訳)


他人の義務を引き受けるより

不完全でも自分の義務を行うほうがよい

他人の道を行く危険をおかすより

自分の道を行って死ぬほうがよい



自分の道を歩むことこそが、真の意味での「解放」なのかもしれない。




<注釈>

(※1)訳語がそれぞれにあてられなかった経緯は、ざっと調べてみたがわからなかった。

(※2)かつて全国の小・中学校に道徳の副教材として配布されていた冊子(現在は廃止)。

(※3)ソクラテスもパウロもクリシュナも同様のことを述べている。ソクラテス:「パイドン」66C~E、67D、83D、パウロ:「ローマの信徒への手紙」7章14~25節、クリシュナ:「バガヴァッド・ギータ―」2章20~22節、59~60節。※ただし肉体が消滅しても残る何かを「魂」と呼ぶか否か、それはどのようなものかについてはそれぞれ細かい部分で異なる見解がある。

(※4)キリスト者にとっては「神の御心に従う」ということ。「運命を受け入れる」とは違う、と主張するキリスト教徒もいるが、自分は本質的には同じようなものではないかと考える。

(※5)参考:鈴木祐丞著「キェルケゴール――生の苦悩に向き合う哲学」187頁「……『私は何であれ神が私に望んでいらっしゃることを受け入れます』という信仰なのである。そしてその背後には、神が善であり愛であることへの信頼がある。たとえ神の意志が私の願望どおりでないとしても、結局神は最善をもたらしてくださるにちがいないという信頼である」

(※6)ちなみに仏教用語の「四諦」や「諦念」の「諦」は梵語のsatya(真理、道理)の訳語で、仏教の経典が翻訳された時代の中国語の「諦」には「あきらめる」という意味はなかった。

閲覧数:101回

Comments


bottom of page