「神の不在」と「空気の支配」
- mapi10170907
- 10月28日
- 読了時間: 4分
更新日:10月30日
【コラム】 東京支部 浮駄ノ楽狂(家事手伝い)
日に日に世界が悪くなる
気のせいか そうじゃない
~~~ ハンバート ハンバート 「笑ったり転んだり」より ~~~
「今更、青春映画でもあるまい」と見送っていた映画『桐島、部活やめるってよ』を、たまたまWOWOWにて観賞し、不覚にも涙しました。
この作品が、学校という特殊な閉鎖空間における、あの年頃の過剰なまでの繊細さと、人間関係の軋轢をあまりにも鮮烈に映像化していたからです。
その意味で私自身の高校時代を振り返れば、地に足の着いたリアリティを掴めずにもがいた日々でした。 コントロールできない過剰な自意識の塊。 小心者の癖に、自らを露悪的に装い、自己同一性は曖昧模糊、将来の自分なんて想像もできませんでした。 記憶の大半は、今も顔を覆いたくなるような恥と後悔で塗りつぶされています。 あの頃の痛みが、この映画を通じて思い出されました。
この物語は、勉強・部活・恋愛や友人関係において圧倒的な強者であり、コミュニティの求心力となっていた「桐島」が、ある日突然、周囲との関係性を拒絶、その影響で周囲の友人達が振り回される数日間の群像劇です。 興味深いのが、その間(劇中)、桐島は学校に来ないなどで一切姿を現さない事。 「桐島の不在」により、周囲の友人たちの平和な日常(空気)が壊れはじめ、彼への依存を自覚させられ、自らの主体性を問い直す必要に迫られます。
察するに「桐島」もまた、「強者」を演じる事を周囲に無自覚に求められ、疲れ、孤独感を感じて苦しんでいたのでしょう。
この作品を観てしばし呆然とした後、ふと思い出したのが、サミュエル・ベケットの不条理演劇『ゴドーを待ちながら』です。
浮浪者の男二人が木が一本だけ生えている野原で、ゴドーという人物(による救い?)を待ちわびていますが、最後までゴドーは現れません。
ちなみにゴドーはGOD(神)の暗喩と言う説が有力なように、「桐島」もまた、キリストの暗喩と捉える視点があると言う考察にも触れ、興味深く感じました。
ちょっと脱線かもしれませんが、永井豪の漫画『デビルマン』を題材にした演劇に『デビルマン 不動を待ちながら』といったものもありました。 舞台は物語の後半、悪魔狩りに抗い、牧村邸で籠城する人々が不動明(デビルマン)を待ちますが、デビルマンは間に合いません(涙) 演劇は未見ですが、この漫画もまた、人間の在り様を問いかける、残酷で偉大な作品でした。
「不在のカリスマ」を「待ち続ける人々」という構図は、様々な層のコミュニティにおいて、人間の営み、その本質を問いかける普遍的なテーマなのでしょう。
これを日本人の欠落感、現実認識の希薄さから来る短絡性や他者依存の観点で話を繋げるのですが、ダグラス・マッカーサー元帥が戦後の日本統治に関する質疑応答の際、「日本人の精神年齢は12歳だ」と語った事は、今なお重要な意味を持つと考えます。
発言の背景には「日本人は新しいモデルに影響され易く、基本的な概念の植え付けも容易い」といった見方がありました。 それ以前にも「日本人は(すべての東洋人と同様に)勝者に追従し敗者を見下げる傾向がある」との見解を示していました。
これらの指摘を「柔軟性があると褒めている」と好意的に解釈する向きもありますが、私には、現実の認識力に欠け、節操なく勝ち馬に乗りたがる、子供っぽい(未成熟な)国民性への批判と聞こえてなりません。
実際、日本社会には「リアリスト(現実主義者)」が少ないと感じています。 私自身、妄想や現実逃避を好む傾向が強くあり、恥ずかしながらその状況の片棒を担いでいます。
その理由を考えるに、仏教からの「憂き世(その諦念的な裏返しとしての「浮世」)」といった、「この世は仮の姿」的な世界観があり、現実を直視する意識が弱まっている。(あの世で添い遂げよう、とか) また、多神教的な世界観により「神と自分一人」という強固で個人的な契約が無く、狭いコミュニティ内(世間)の「空気の支配」に影響されやすい。
この様な文化的背景が、現実認識に欠ける未成熟な振る舞いとして表出しているのかもしれません。
こうした刹那的な思考や他者依存の体質を解決する糸口として、最近「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉を知りました。 これは、不確かさや疑いの中で安易に結論を出さず、その状況にとどまって耐えられる能力を指します。 状況に流されず粘り強くとどまる事で、より深い洞察や創造力を目指す事も出来るという考え方です。
矛盾を抱えつつも粘り強く考える事こそが、日本人の弱点とも思える現実認識力を高め、「リアリスト」への第一歩になるのかもしれません。
一方、こんな弱さを抱えた日本人を嫌いになれない私、「わかっちゃいるけどやめられない」に愛着を感じてしまうのは、未成熟な自分自身への自己弁護でしょうね・・・。
現代日本人に見られがちな「今だけ・金だけ・自分だけ」という態度は現実主義的な性格が強い様に思われます。成程、確かに国際情勢や経済の実態と言った現実から目を背けがちな人は沢山おりますが、視野の狭さ或いは盲目的な側面は必ずしも非現実主義的とはいえず、酷く身近な社会の現実だけを見て動く人々も現実主義者的ではないかと。
或いは現実に敗れ特定の理想を諦めた果ての視野の狭さ・盲目的態度…ともいえるかもしれません。
逆に、人は屡々中国やロシアの脅威、対米従属の危うい側面を声高に叫びますが、恐ろしい中国兵やロシア兵が日本人に襲い掛かる姿を目の当たりにした人はほぼおらず(その脅威を感じる例くらいはありますが…)その点において非現実的…とまで言うと過ぎた表現だとしても、やや観念的であり身体性を欠いてはおります。 現代日本人に不足しているのは寧ろ神秘主義的性格であり、霧島やゴドー・デビルマンといった…少なくとも作品中では確実に存在する他者ではなく、およそ助けを期待できない、本当にいるかどうかも定かではない絶対者の教えを信じ主体的に行動できる倫理観を持たない事が悲劇的結末の原因である…といった旨の話を、確かゴドーの話が表現者塾で取り上げられた際の趣旨だったように記憶しています。その点、挙げられた3作品のうちデビルマンだけは幾らか性質が違うかもしれません。
日本人の堪え性の無さは確かに問題ですが、それを根拠に日本人を嫌いになるまでいくと度を越えているように思われます。ただ、堪え性の無さ自体は嫌ってもいいのではないでしょうか。
それと蛇足ですが、文章の書き方が知人にとてもよく似ていました。
同人ブログの名の通り、似た人が集まっているだけかもしれませんが。
…拙いですが何となく感想を書いてみたくなったので書いてみました。