「死生論」を読み直して、「死への怖れ」とは何か?を思い直す
- poisonfrog777
- 2023年8月6日
- 読了時間: 5分
更新日:2024年1月22日
【コラム】 東京支部 田尻潤子(翻訳業/日本尊厳死協会会員)

ずっと昔に読んだ「死生論」を読み返していたら序盤のあたりに「死体」の話が出てきて、ふと思い出した出来事があった。20代前半の頃アメリカのホスピスで介助・看取りのボランティアをしていたときのことだ。
ある夜勤の日。床ずれを防ぐため入居者(※1)たちの身体の位置を数時間おきに動かすことになっていたので、ある入居者の居室に他のボランティアと一緒に入っていった。ここでこの入居者が何も反応しないことに気づく。私は規定されている手順を踏んで「確認作業」をする。鼻腔の下に割いたティッシュペーパーをかざしてみたり、瞳孔に光をあててみたり。やはり無反応。私はホスピスと提携している医師に電話をかけ、状況を伝える。そして、もう息をしていない入居者の横たわるベッドの近くに座って医師が到着するのを待った。そこにいなければならなかったわけではないが、なんとなく、故人をそこに「独りぼっち」にするのは申し訳ないような気がしたのだ。
医師が来るまでにけっこう時間がかかったと記憶している。そのあいだ私は亡骸の傍らであれこれ考えていた。この人、顔を見るかぎり苦しまずに逝ったようだ。よかった。睡眠中、意識がないまま死んだのだろうか。その場合、いわゆる「走馬灯」を見ることはないのかな。今まで一体どんな人生を送ってきたのだろう。
これは1990年代のアメリカの小さな田舎町での出来事だから、今の日本の医療関係者が読んだらずいぶん「大らか」な対応だなと思うかもしれない。しかし、ホスピスで人が死ぬなんて当たり前のことだ。いちいち感傷に浸っていられない。そういう場所なのだから。ただし入居者が生きているあいだは、彼らが余命残り少ない時間を楽しめるよう、苦痛のないよう精一杯できることをする。私自身はこれで全く問題ないと思っている。しかし、死はただ生の延長線上にあるものに過ぎない、あるいは生と背中合わせのものだ、という死生観に慣れていない人は違和感を覚えるかもしれない。
日本人はいつから死を忌み嫌うようになったのだろう。前回の投稿で話題にしたインドは、例えばガンジス川で沐浴する人たちのすぐ近くで火葬が行われていたり、火葬されなかった遺体(※2)が布に包まれてぷかぷかと川に浮かんでいたりする。それを見ても誰も驚かない。死は日常の一コマなのだ。日本ではまずありえない。
死を忌むのは死に対する怖れがあるからだと思うのだが、そもそも、死ぬのが「怖い」というのは一体何なのだろう。死そのものが怖いのではなくて、死ぬ時に痛いかもしれない・苦しいかもしれないのが嫌だ、ということではないのだろうか? それならばホスピスのような延命措置ではなく疼痛緩和を確実に受けられるところにいれば問題ないはずである(問題なのは普及度も認知度も低いこと)。あるいは、死に際の苦痛を想像しているわけではないとすれば、死んだ後のことを心配しているのだろうか。私の知り合いで実際にそういう人が何人かいた。地獄に落ちて痛い目に遭うと想像すると恐ろしいとか、来世で今よりもっと悪い境遇に生まれる(輪廻転生する)のが嫌だとか。死後の「安心」(?)を提供するのが宗教の役割の一つのはずが、これだと逆効果になっていて本末転倒だ。地獄や来世より今の心配をしたらどうなんだ、と私は思ったものだが、本人にとっては切実な問題なのだ。ただし自分自身の死ではなくて、大切な人に死んでほしくない、と思うのは当然だと思う。しかしながら「自分の」死が怖いというのには何が背後にあるのだろう。別の知人は「自分が存在しなくなると想像すると怖くなる」と話していたが、私はこれにも共感することができなかった。
故・西部邁氏は「死生論」(※3)の中でこのように語っていた(44頁):
……死が怖いということの一つの大きな理由は、死の間際における「後悔」にあるのではないか、怖いのは取り返しようのない人生についての後悔なのではないかと思いはじめた。子供にあれをしてやればよかった、友人にああしてはいけなかったのだ……という、もうじき死ぬ人間の抱く後悔の念、それが死の恐怖の中心なのではないかということである。
これには一理あると思う。以前私がこの「表現者linkage」に投稿した記事「どう生きて、どう死ぬか。コロナ禍で『死』について考える」で述べたことの繰り返しになってしまうが、やはり悔いのないように生きる、というのは大切なことなのだ。
西部氏が生前、潔くこの世を去りたい主旨のことをたびたび述べていたにもかかわらず、最期あのように他者を巻き込んでしまったのは残念だったと言わざるを得ないが、「死生論」の最後に引用されていたのはニーチェの「運命愛」(amor fati)だった。この言葉を選んだ、その心は一体どのようなものだったのだろうか。
※1 ホスピスは治療や延命措置は一切しないので、少なくともここの施設では「患者」とは呼んでいなかった。
※2 ヒンドゥー教は基本的に火葬するが、火葬に必要な薪を買う余裕のない人々は遺体を布で包んでそのまま川に流す。
※3 余談になるが、本書の中で「尊厳死」という表現への違和感が綴られていて、その代わりに「簡単死」「簡便死」が提案されている(73頁)。私はけっこう気に入っているが、「日本簡単死協会」なんて名称にしたら残念ながら世間からは何かのパロディかブラックユーモアの類と思われるに違いない。入会者も激減するかもしれない。尊厳死という言葉の背景には、この概念がもともと欧米から来たもので、”death with dignity”がそのまま和訳されたのが定着したという側面もあると思う。
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