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「推し」の功罪

  • 執筆者の写真: 真澄 吉田
    真澄 吉田
  • 2023年9月1日
  • 読了時間: 4分

【コラム】 東京支部 吉田真澄 


何か大事件が起こる。大変、残念なことだがメディアや専門家や知識人が発したメッセージが実は、誤りであったことが数年後に発覚する。しかもかなりの頻度でそんなことがある。でもその頃には、みんな誰が何を語ったかなんてすっかり忘れていて、まるで時効が来たか、恩赦でもあったかのように無罪放免。日本人は、実にあっさりしていて寛容な?ようである。私は、そのような国民性を決して嫌いではないのだが、こと言論に関しては、このあっさり感はいただけない。

 

ところで、企業の品質管理の世界にはトレーサビリティ(Traceability)という言葉がある。これはトレース(追跡)とアビリティ(能力)の組み合わせから生まれた用語であり、近年、特に自動車、電子製品、食品、医薬品など製造業を中心とした幅広い分野で使用されている。一般的には「商品の生産から消費までの過程を追跡すること」を通じて、不具合の原因特定と改善、被害の最小化、消費者の声をフィードバックした品質向上や迅速なリスク対応などのフィードフォワードを円滑にする管理手法であるとされている。

 

この手法を、言論情報の品質管理に応用してみたらどうだろう。具体的には、TV、新聞をはじめとするマスメディアからネットメディアまで、私たちが注目し、頻繁にそのコメントや言説を参照する「推し」の知識人やコメンテイターやインフルエンサーの言動を、少なくとも3〜5年間くらいは追跡・検証してみるのである。特に大規模災害や原発、国際紛争、今般のようなパンデミック対策、ワクチン接種など大テーマに関する言説のトレーサビリティは、時を経て明らかになった事実が、リトマス試験紙のように、紛い物をあぶり出してくれる効果(但し、日本の公官庁などを10年以上のスパンでトレースすると、人間不信や目眩等の症状が出てくる場合も…)が期待できる。

 

高度情報化社会と言われる現代では、(とても深刻な問題だが)大半のメディアが「垂れ流し」状態となっている。リアルタイムな情報の商業的価値が世界規模で高まっている以上、残念ながらこれは構造的に不可避とも言える現象なのである。だから、突き詰めて言えば、垂れ流しを批判しても何も始まらないのだ。世界で次々と生起する出来事を、速報性に重心を置いて受け取るメリットを享受すれば、トレードオフによって信憑性は必然的に低下していく。その上、マンスリー、ウィークリー、デイリー、タイムリー、アワリーという具合に細分化し、露出頻度を上げなければ競争に勝ち残れない状況下にある、大半のメディアや出演者に歴史観や検証性などを期待しても、ほとんど無駄。日替わり定食に、懐石料理の奥深い味わいを求めるようなものなのである。


それゆえ、垂れ流し情報の弊害を是正できるのは、情報の受け手、つまり自分自身だけだと割り切るべきなのである。溢れる情報に対して、しばらくの間「推し」を頼りに判断すること(もちろん理想は、その都度、自分の頭で思考することなのだが)は、まあ、やむを得ない。関連情報にアクセスしやすくなるし、多角的な視野に学ぶことも少なくはない。しかし、人生を左右するような大問題に直面した際の決断を誰かに委ねるなら、せめてひと時だけでも、主体性を持って時の流れを止めて彼(彼女)の言動をトレースし、検証してみるくらいの知的エネルギーは払うべきだと思うのである。


検証のポイントは、その「推し」が、かつて仕切りに、ある方向性の正当性を主張していたテーマについて、最近、寡黙になっていないか。言行は一致しているか。ある程度時間が経過し、はっきりと間違いが露呈した際に、謝罪や訂正をした形跡があるか。前言の論点をずらして弁解してないか。やたら権威や同業者と連みたがっていないか。「推し」自身が師匠、師匠と呼び親しむ人物に対して、少しでも批判的な言説があるか。そして、これは勘なのだが、目の動きが不自然ではないか。その人物に孤高の雰囲気を感じるか、などである。そして、コイツだめじゃん、と思ったら、うがいでもするように、ガラガラーッ、ペッツ!と吐き出してしまえばいいのである。決して上品ではない表現で申し訳ないのだが現状では、このガラガラーッ、ペッツ!こそが、民主社会を支えるための公正な情報を確保する、つまり利権や政治勢力やメディアによって歪められた情報から自分自身を守るための有力な手段となってしまっているのである。


筆者は、こんな方法も取り入れて、なるべく誠実で、思考の方法論的に学ぶことの多い人物や言説やメディア、そして購入する著作物を選んできたつもりである。結果、どんな時代にも「推し」なんて、ほんの僅かしか存在しないことに気づいた。長い歴史の評価に耐えた(これこそ、立派なトレーサビリティだ)名著や古典や偉人たちの力を再発見することができた。真剣な対話が持つ意義を再評価することもできた。



「やっぱり、自分で考えよう」。以来、私はとても晴れやかで自由な気分である。



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