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「保守」という感覚——西部邁論・試論

【コラム】 東京支部 堀越直樹

 

 西部邁はなぜ保守思想家になったのか。自ら「〝内地〟の伝統とのつながりを絶ち切られて(『生まじめな戯れ』)」いるという北海道に育ち、「革命と自由(『六〇年安保闘争——センチメンタル・ジャーニー』)」を叫んで国会と首相官邸という権力中枢に突入して逮捕され、はたまた数理経済学を批判して社会経済学を構築したかと思えば、アメリカ・イギリス留学を経て保守思想家・バークを学び、日本で保守思想を標榜する。このような事実を追ってみれば、西部が保守化する契機は留学とバークへの接近であるように思えます。

 しかし、西部邁の無意識では、あるいは「意識の底(同上)」では、保守思想家への転向は左翼過激派からの離脱に準備されていたものでした。すくなくとも、「一人のいい女、一人の良い友人、一個の思い出、一冊の良い書物(チェスタトン『正統とは何か』)」のような自己の存立基盤を、自覚しつつ守り抜くことをもって「保守」となることを意味するのならば、この仮説は確かなものだと思います。

 西部邁が属した組織はブント(共産主義者同盟)です。「革命への献身と自己犠牲の精神(共産主義者同盟規約)」をもとに、暴力的で過激な行動を繰り返し、戦後以来の既存の体制をすべて破壊しつくそうとしました。しかし、そんなことはできるはずもなく、あっけなく六〇年安保闘争は終焉を迎えます。ブントを指揮し、敗北へと追い込んだ西部邁に寄り付く同志はいませんでした。それに加え、西部は二度逮捕されて執行猶予中の身です。要するに、ブントからも社会から疎外されて、どん底に落ちたわけです。西部はこのときの感覚を「疲労と孤独」であったといいます。

 しかし、そうした「疲労と孤独」が癒えていく体験が訪れます。のちに妻となる女性(満智子さん)が東京で一人暮らしをする西部を訪ねに、東京にやって来たのです。満智子さんと付き合っていた西部はその求めに応じて、とある駅のホームに行きます。そこで西部は次のように満智子さんに語りかけました。「万が一、判決が執行猶予ということで、実刑にならなかったら結婚しようか(『寓喩としての人生』)」もちろんこれは満智子さんが断ることを見越しての発言でした。しかし、満智子さんはこう答えました。「実刑というのでも私はかまわないわよ(『妻と僕』)」西部邁は言葉を失いました。ブントにも社会にも見捨てられそうになった自分を支えてくれるというのです。「疲労と孤独」からの回復が西部邁に少しずつ見えてきました。。

 決定的だったのは、北海道石狩の海辺でのことです。少し長くなってしまいますが、重要なので引用します。


   私の自意識は、一九六四年の夏、北海道石狩の海辺で、自分が極小化と極大化の両極

  端に引き裂かれる感覚を味わっていた。私は一人の女性〔満智子さん〕と一緒に小高い

  砂丘のうえに腰を下して、北国のひえびえとした海と寒そうに身をこごめる海水浴客と

  を見下ろしていた。その海辺の風景が次第に一枚の巨大な絵画となり、私自身もその絵

  画の中に徐々に溶け込んでいって、最後には自分が一個の砂粒になったように感じられ  

  た。と同時にその風景の拡がりをすべて収めている自分の眼が途轍もなく大きなものに

  感じられた。

   その一瞬があまりにも森閑としたものであったために、東京で抱え込んだいろんな屈

  託がすっと消えていき、心身が洗われるのを感じた。こうした感じにつづいて、自分も

  これからひょっとして喜怒哀楽を素朴に感じることができるのではないか、ということ

  は。どうにか「きちんとした生活」に近づけるのではないか、という思いが意識の底で

  かすかに動いたように感じられた。これが私のコンヴァージョンなのであった。(『六〇

  年安保闘争——センチメンタル・ジャーニー』)


 目のまえの風景からすれば、自分はとるに足らない孤独な小さな存在に過ぎない。一方で、その巨大な風景を目に収めているのもまた孤独な自分です。つまり、自分が極小であろうと極大であろうと、どちらにせよ、自分は孤独だと感じています。しかし、そうはいっても、西部は満智子さんとともに海辺にいる。実刑判決で社会から抹殺されようともそれでも支えてくれる他者が隣にいる。自意識では孤独感を味わっていようとも、「意識の底」で、他者に支えてもらっている感覚が絶対的にある。

 この体験を西部は次のようにも言い換えています。


   これからの自分には、他人からたとえ虫のように踏まれても蔑まれても、この女と連

  れ合って生き抜くという道しか与えられていないのだと考えました。「虫のように生き

  る」ことくらいならできるであろうと自分を安心させたのです。(『妻と僕』)


 社会から蔑まれ、自分の居場所が社会になかったとしても、生きていくことができる。満智子さんが、最後には、自分を支えてくれる。西部邁がそう自覚したのがコンヴァージョンという体験でした。この体験から、「意識の底」に眠る他者との感覚、他者がいることで自分は生きることができるという感覚を胸に、数理経済学批判と社会経済学の構築を目指します。外国留学では、孤独を乗り越えた世界としてのイギリスを体験しました。ここでバークを学んで、自身を保守思想家だとはっきり自覚するのですが、それはまた別の機会に書きたいと思います。

 拙い筆となり、至らないところも多くあったと思いますが、お読みいただきありがとうございました。

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