「今日は奢るよ!」が変えた酒宴
- 7月28日
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【コラム】 東京支部 浮駄ノ楽狂(家事手伝い)
だけど何かが 足りないよ
今の自分も おかしいよ
~~~ 吉田拓郎 「人間なんて」より ~~~
仕事を辞めたことも影響しているのか、最近、友人や昔の知人から食事をご馳走になることが続いた。
先日も、久しぶりに会社時代の先輩方と飲む機会があったのだが、席に着くや否や、最年長の先輩が「株で儲けたから、今日は全部奢ってやるよ!」と高らかに宣言した。
もちろん固辞した。 しかし最年長先輩の押しは強い。
内心、「おっ、ラッキー。では、いろいろ頼もうかな。」と思ったが、実際にはそう単純ではなかった。
メニューを開いては「これは美味しそうだな」と思うたびに、「いや、もう少し控えめなものに」とブレーキがかかる。 それを繰り返す。
会話も「今はどんな株が買いなんですか?」、「さすが〇〇さん、この業界にお詳しいですね。」などと、普段なら口にしないようなお世辞を並べてしまう。 最年長先輩は終始ご満悦だ。
もちろん先輩を嫌っているわけではない。 ただ、株にはあまり興味がなく、話題の大半を儲け話が占めた三時間は、どこか疲労と後味の悪さが残った。
そのとき、つくづく思った。
なぜ「今日は奢るよ!」を、最後の会計の場面ではなく、冒頭で宣言してしまったのだろうか。 その言葉が周囲を萎縮させる可能性には、案外思い至らないものなのだろうか。
若い頃の私は、「○○さんが珍しく奢ってくれるっていうんだから、不味くても高いものを頼まなきゃ失礼ですね!」などと軽口を叩き、遠慮なく飲み食いしていた。
歳を重ねた今、あからさまに露悪的で図々しい振る舞いもできなくなった。 それが相手への配慮なのか、自分の保身なのか、その境界も曖昧だ。
改めて考えると、「奢る・奢られる」という行為は実にセンシティブで、どこか政治的である。 そこには、遠慮や見栄、恩義、打算が渦巻き、人間関係の力学が静かに働いている。
偉そうなことを言っている私自身、「気遣い」などと誤魔化してはいるが、「保身と世渡り」というか、下卑た性根が顔を出していた。
そう、「奢る」という行為は、一見すると無償の好意に見えて、実は相手に『負債』を負わせる贈与なのだ。 会計の場面ならともかく、酒宴の冒頭でそう宣言された瞬間から、私は知らず知らずのうちに「返礼」を余儀なくされていた。
やはり「割り勘」が精神衛生的に良い。 酒宴でまで必要以上に気を遣うのは避けたい。 料理を堪能できて、会話も楽しめ、酒にも気持ちよく酔える。
その上でもし奢ってもらうとしたら、気心の知れた友人や、心から尊敬できる先輩がいい。
奢られるというのは、案外コストの高い行為なのである。
ここまで書いて、ひとつ気になることがある。 タダ酒を飲んでこんなことを考えている時点で、私はすでにマルセル・モースの理論の格好の標本なのではないか。
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