「今はプロレスラーもどきしかいない!」
- mapi10170907
- 5月30日
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【コラム】 東京支部 浅見 和幸
「今はプロレスラーもどきしかいない!」
これは、去る3月20日に行われたDDT(プロレス団体)大会にて、或る選手が頸椎骨折・頚髄損傷の事故が発生したことを受けて、元プロレスラーの前田日明が4月11日に自身のYoutubeチャンネルで苦言を呈した動画のタイトルである。
前田は過去に度々受け身の重要性を発言をしており、チャンネル視聴者である私からすると、氏の危惧したことが現実に起こってしまったか、と捉えていた。しかし今回の発言は事故直後であってか反響は大きく、一部の現役プロレスラーからは反論の声があがり、ファンの間でも様々な意見が飛び交う。
それを受け4月20日に前田は、事故最大の防御策である受け身の重要性と自身の想いを改めて発信している。
プロレスはレスラー同士の単なる闘いだけではなく、双方の技の掛け合い、特に投げ技は観客を魅了する重要素である。一方で華麗な投げ技は一歩間違えれば大事故に繋がり、選手や家族の一生を棒にしてしまう危険性をはらんでいる。前田の現役時代にはこのような事故は無かった、それは各レスラーが受け身を含めた基礎が出来ていたからだと説いている。前田が台頭してきた1980年代は、馬場・猪木を始め、タイガーマスク(佐山聡)、鶴田、長州力、藤波等だけでなくさまざまな外国人レスラーと共に一世を風靡した、正にプロレス黄金期である。
確かに前田が引退する1999年まで、痛ましい事故発生は耳にしていない。
一方でその後の2009年の三沢光晴(頭部強打、頚髄離断により死去)、2017年の高山善廣(頚髄完全損傷により肩から下が不随)に起こったリング上での事故は、多くのプロレスファンの脳裏に焼き付いているはずだ。身体をそして時には命を懸けて戦うリング上で、不幸な事故が起こることは誰も観たくも望んでもいない。業界全体で真剣に向き合って欲しいと願うばかりだ。
ところでチャンネル内で私の気を引くエピソードがあった。
長州力が立ち上げた団体のを試合を前田が観に行った時のこと。第一試合から技や受け身が未熟なのにマイクパフォーマンスだけは一人前の酷い試合が続く。選手たちが控室に戻っても長州力は苦言も何も呈しない。酷い試合に対して何故叱咤しないかを投げかけた長洲力の返答が、「日明、そういう時代じゃない。そういう事を言うと皆辞めちゃんだよ」。革命戦士・長州力よ、どうしたことだ・・・
江戸末期の儒学者・佐藤一斎の「言志四録」に”老齢は酷に失せずして、滋に失す。警むべし”(老人になると他に対して厳格になり過ぎることはないが、優しくなり過ぎるのはよくない。戒めるべきだ)という一文がある。日常の至る所でこの一文のようなことを目にし感じることが多くなっているのは私だけだろうか?
世間の組織や共同帯において人の上に立つ「長」という役割りには、人生経験を重んじて年配の方が務めることが多いのは自然の流れだろう。時には周囲の人に言いづらくとも苦言を呈したり、厳しい事を述べたりする為、嫌われる傾向にある。しかし、その苦言や要求がなければ、組織・共同帯は健全には動かないことは、社会の中で何らかの共同帯に身を置く我々が今更説くことではない。
大半の高齢者は、長年の社会の中で職業等の役割を全うして、今の”幸せ”を掴んでいるのではないのか?
その中で得た経験から良かれと思うことには、後進に対して自信を持って叱咤激励してもよいのではないか?
言葉を選んでも老害で片付けられる時はあるだろうし、そもそも自身の発する言葉には責任が伴うものだ。
しかし経験で培われた自負があればこそ、そのようなことは瑣末ではないのか?
それとも事なかれ主義に徹して、寛容な振る舞いが出来る成熟した”大人”として扱ってもらいたいのか?
寛容は聞こえはいいが、自身の言動に対して単に責任回避しているだけとは言い過ぎだろうか?
当たり前の事を当たり前に言えない・言いづらい、そもそも当たり前も共有出来ていないのが昨今の社会情勢かもしれない。でも誰かが言わなければならない時はあるはずだ。
私は名も無い単なる一国民にすぎない。「前田よ、よく言ってくれた」という他力本願の共感ではなく、
彼のように矢面に立っての叱咤激励には、時にはあやかりたい。また、このエピソードだけで長州力の多大な功績は変らないし、引退後も元気な姿で様々な活躍をする姿もファンに元気を与えて続けていることは付け加えておきたい。
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