top of page

「トロッコ問題」と「人生における選択肢」について考える

【コラム】 東京支部 田尻潤子(翻訳業)


「トロッコ問題」という思考実験がある。知っている人が多いと思うので説明は手短にしておくと、ある状況に「介入」せずにただ「傍観」すれば5人が死に、「介入」するほうを選択すれば死ぬはずだった5人は助かるがその代わりに別の場所にいた1人が死ぬ。さあ、どうするか? というものだ。1対5なら5人を助けるべきだと考える人のほうが多いかもしれないが、綺麗事抜きに言うと、私はこの問題に「正解」はないと思っている。単純に「頭数(あたまかず)」だけでは考えられない、あるいは自分が当事者だったら頭数で考えられなくなることだってあるはずだからだ。さらに、その場に居合わせた人が取った選択肢(行動)について、その責任をどこまで追求できるのかという問題もある。


自分が生きているあいだに高確率で起こるとされる大地震に関して、こんな想像をしてみる。私がお婆さんになった時に大地震が来て、人生残り少ない私一人を助けるために将来有望な若い人が危ない橋を渡ろうとしている時、私のことはいいから早く逃げなさいと言う勇気が自分にはあるだろうか。その若者が私を助けないことで生き延びたらもっと多くの人が助かるかもしれない、なんて時に。あるいは、あなたが男性だったら、こんな事態ではどうだろう? あなたが行動を起こせばたくさんの人を助けられる状況にいて、でもそれをやったらあなたのほうは死ぬかもしれない時、あなたの愛する女性に全力で止められたら? もしくは、あなたはレスキュー隊員で、10人が取り残されている現場に向かおうとしていたとき自宅に一人でいる奥さんから電話がかかってきて、こっちに先に来て助けて、と言われたら? もし奥さんのほうを助けに行ったら、あなたは「職務放棄」したとみなされてしまうのだろうか?


行動すべきか否か。何を、誰を優先するか。選択しているのは「あなた」なのか、あるいは「目に見えない何か」にそうさせられているのか。


現在の自分とは、これまでの選択の積み重ねの結果だ。ここで、「そうするしかなかった」ものは「選択」したと言えるのか、と異論のある人がいるかもしれない。これは、そういう場合と、そうでない場合があるのではないかと思う。例えばA社とB社の面接に行き、絶対入社したかったA社で不採用、そうでないB社で採用され、しぶしぶB社に入社したとする。これを「選択の余地がなかった」とは、私は思わない。B社を断り、他をあたってみるという「別の選択肢」だってあったはずだから。交際相手や結婚相手を選ぶ際にも同じことが言えると思う。


これまでの自分の人生を思い返してみると、「そうなっていた」と言ってもいいような状況ならいくつか思い浮かぶ(とんとん拍子に進んだ話など)。自分はそうしたものを大いなる存在による「導き」とか「御心(みこころ)」などと解釈するが、それでも私は自分の手を自分で動かして航空券の手配をしたり、足を動かして電車や飛行機に乗ったり、話しかけるべき人に声を出して話しかけたりした。そうせざるを得なかったというわけではない。


これを読んでくださっている皆さんは、それぞれの人生をふりかえって、何か思うところはあるだろうか。



閲覧数:146回
bottom of page