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往復書簡

関西支部【コラム】 小町



野上弥生子と田辺元の往復書簡集を借りて読んでいる。はじめ、私は二人が恋愛関係にあったことを知らず、この本を読み進めていた。


恋人同士でも、友達でも、家族でも、当事者が亡くなってからまとめられた書簡集を読むとき、いつも少なからず罪悪感がともなう。手紙というのは不思議なもので、会話では伝えることのできない秘めたる思いが、封の中いっぱいにつめこまれている。



手紙は、ふだん表現できないもの、それを素直にあらわすことを許してくれる。それゆえ、素朴な、飾らない、その人のそのままの姿、ともすれば本人を目の前に見る時より、その人のことを感じてしまうこともある。自分でない誰かに当てられた手紙を私が読むことは、果たして良いことなのか、どうか。


けれども、二人の手紙は私に罪をつくらない、感じさせないくらい心地よい。そこに、必死の恋愛感情とか、若者ゆえの恥ずかしさとかがあるわけではなく、みえてくるものは、ひとりの人間と、もう一人の人間が、互いを気づかい、支え、学び、移ろう季節をともに過ごしたやさしい時間であった。



いつか、私は片山廣子の「小さい芸術」という随筆を読んだことがある。片山廣子は、相手を心地良くさせる手紙を「小さな芸術」と呼んだ。この随筆に書かれていた通り、野上弥生子と田辺元の手紙は全て、小さい芸術だと思う。小さな芸術が何通も、何十通も、何百通も重なり、大きな芸術となっている。


封筒、宛名、便箋、綴られた言葉、手書きの文字.....むろん、書簡集はそのような、手紙の持つ芸術性をほとんど削ぎ落として、骨だけ残したような欠陥品ではあるが、互いの心遣いは手紙の文から充分つたわる。とつぜん往復書簡集などを読みたくなったのは、近ごろ手紙のやり取りをしていないからかもしれない。


誰かに思いを伝えるために紙を選んだり、封筒を選んだり、墨を磨ったりすることを、私は恋しく思っている。

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