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LGBT問題と異常者に関する考察

【コラム】 東京支部 日高 光


令和五年六月二十三日、LGBT理解推進法が公布された。


未だ世の中にはLGBTに対する強い偏見が存在するという事でこのような法案が作られたのだろうが、個人的には随分と傲慢・無礼・尊大な法案に思える。


要するに「お前らはLGBTというものを解っておらぬ。お前らはそれについて正しい理解をせねばならぬ。我々はその真実を知っており、お前達に教えてやるのだから、心して聞き、よく学ぶように。」と決めつけて来たわけだ。


こんなやり方・態度では、LGBTに対する差別的意識など殆ど無い人間ですら「失せろ狂人め!!変態性癖め!!」と中指を立てたくなりそうなものである。(そもそも大半のLGBTの当事者たちはもっとずっと理性的で、彼等からでさえ、こんなやり方を望んではいないという声も多いらしいが…)


実際、LGBTの当事者ではない我々がそれを十分理解しているかと言われればYesとは答えにくいが、当事者だからと言って正しい理解があるとは限らない。


自分自身の事なんて案外解らないものだし、専門家や学者の唱える通説がとんでもない嘘出鱈目であるなんて事も、コロナ禍や古典派経済学、センメルヴェイス効果など、直近の出来事、現在進行形の問題、過去の教訓といくらでも例がある。


ならば、性に関して巨大な影響を及ぼすLGBTのような問題は、政府や学者は当然、我々民衆の側も、もっと慎重に考える必要があるだろう。(正直、下らない事と無下に突っぱねても良いと思うのだが、最早それは不可能らしいので。)


コロナ自粛のように何となくの空気に流されてしまったり、お上の言うことだからなんて理由で簡単に納得してはいけない。


そんなわけで、私も私なりにLGBTについて色々と考えた事を訴えてみることにした。


まず最初に、肉体と精神の関係を考えた。


恐らく我々はこの世に生まれ落ちた時点では、その精神は男でも女でもなく、ひょっとしたら人間ですらないかもしれない。単に「生き物」であろう。


そんな単なる生き物にすぎなかった存在が、生きていく中で様々な経験をし、幾らかの決断を下して自己を形成していく。


この過程で本来、肉体を無視した精神の成長などあり得ないように思われるし、実際その考えは相当程度真実に近いと思う。


逆に言うと、二次性徴を迎える前の、まだ男女として完成されていない頃の幼児決断に、問題の本質があるように思われる。


私は少なくとも現在はLGBT当事者ではないが、人生の過程でそのような体験がゼロではなかった。


例えば私が小学校一年生の頃、クラスにとても美しい男子児童がいて、その美しさと無垢な瞳に吸い込まれそうになった事があった。


また、初恋の女性に出会うより少し前、女達の華やかな衣装や丸みを帯びた美しいボディライン・天真爛漫可憐な姿に「あっちの方がいいな」と憧れた事も、思えばあった。


著名な精神病理学者・木村敏氏の著書「異常の構造」にて、分裂症患者が症状を発現するにあたって、非常に多い切っ掛けの一つは二次性徴後の恋愛だと書いてあったが、もっと前の段階でも性と愛には危険な(遭えてそう書くが、今はご容赦願いたい。)要素があるのではなかろうか?


嘗ての私がもし、クラスメイトの美少年の瞳にそのまま吸い込まれていたら、初恋の女性に男としての自覚と本能を呼び起こされるのが遅れたら、私は同姓の同姓としての魅力を異性のそれと理解したり(或いは異性の魅力を認めなくなったろうか?)はたまた異性に対する過剰な憧れを肉体と精神の不一致であると判断したかもしれない。


LGBT問題の枠を越えて、人格形成上における幼児決断は非常に重要であり、それ故に人間は成長し大人になればなる程、精神的柔軟性を失っていく。


そんな中、性に関する早すぎる幼児決断と、現実の肉体の不一致がLGBT問題の大きな要素であるように思われる。少なくともそれは誰の身にも起こりうる。


-ここで肉体からは一度離れて、純粋な精神の問題を考えてみる。


皆さんは、精神的に混じり気の無い純粋な性というのを信じられるだろうか?実はそんな人は極めて稀であり、人々が屡々トランスジェンダーに感じる違和感も、本当はここにあるのではないだろうか?


先程、精神と肉体の話の中で、人格の形成に人生経験が大きく関わることを主張したが、我々はこの際に多くの他者と交わる。当然そこには男も女も存在している。(全く他者と交わらないとか、男か女のどちらか一方としか交わらないという人は、極めて少数の例外だろう。)


ならば、ほぼ全ての人間は、男女どちらの人間とも関わることとなり、その過程で彼らの様々な影響を受ける。


男であっても母の愛の何たるかを感じ取り、また女であっても父の背中に多くを学ぶだろう。親や家族以外の人々からも、多くの男らしさ・女らしさを感じ取り、その幾らかを無意識的に我が物とする。


故にシスだろうがトランスだろうが、混じりけの無い純粋な男女など存在しないと考える方が、寧ろ自然であろう。


この精神における性のグラデーション(…とでも呼ぶべきだろうか)の中から、人は己に・自然に・社会に相応しい表情を選び取る。


こうした場合に人々が見せる異性的な言動や表情は、その場に調和しているが故に自然なものとして受け入れられるが、これが性自認なる手前勝手な都合から発せられると受け手の反応は変わってくる。


これは私の経験上では所謂トランス女性に多いのだが、精神の性が肉体のそれと異なっていると主張するには、そのしぐさがあまりにもわざとらしく、嘘臭いのだ。


これを読んでくれている皆さんも当然、社会生活の中で性的少数者ではない通常の女性と多く関わっている事だろう。彼女らの言動を一つ一つじっくり思い出してみた時、その言動が己が女性であることを訴えるような、また女性ならではの言動と言うのがそんなに見当たらない事に気付くのではなかろうか?


アニメや小説に出て来る様な、これみよがしな女らしさを一つ一つの行動や言葉遣いからアピールして来る様な女性は極少数で、華美な服装や妙に露出度の高い服装もあまり好まれず、また加齢に従って落ち着いたものを好むようになっていく。


…トランス女性にこの傾向は見られない。逆のパターンのトランス女性があまりに奇異で目立ちすぎるからそう思うのかもしれないが、同じくらいの女性にはあり得ない種類の人間が、トランス女性には多く見られる。


己が女性であることを訴え証明する必要性を感じない者達なら決してやらないような、極めて純粋化された(あくまで本人達の脳内で…かもしれないが)女性を演じようとする。おそらくそうした焦りが彼らを嘘臭い女らしさの原因であり、その過剰な演技は、他者の承認無しには己の性別すらも信じられない事を白状しているようにも見える。


一方トランス男性もトランス女性ほどではないにしても、やはり独特の違和感があるように思われる。


此方は私の遭遇経験が少ないのでそこまでの自信は無いのだが、以前の職場で出会った数名のトランス男性全てが、独特の繊細さを感じさせる人であった。


単に小柄で細身であるとか、骨格が目立たず丸みを帯びているとか、そんな程度なら気にも留めなかっただろうが、男性の服を着ているにもかかわらずどこか女性的なセンス…少なくとも男性的とは思われない着こなし方で、表情一つとっても男性らしさを全く感じさせない。


…私には一人、とても自然に女性らしさを見せてくるトランス女性の知人が居るのだが、この人はぱっと見では男性とは全く分からず、深夜におよぶ飲み会の中で時折口論になったりもしたのに、最後まで自然な裏声で話し続けていた。そんな驚異的な水準で女性をしての自分を徹底できているトランス女性でも、トランス男性よりは男らしさを感じる…というくらい、「彼等」からは徹底して男らしさを感じない。


そんな調子である所為か一緒に働く女性陣もトランス男性らに妙に優しく、当人には残念な事でもあろうが、どこか女性扱いされていた。それでもトランス女性に比べると大分落ち着いて見えるのは、シス男性には当然ある筈のものの欠落に無自覚であり、その事を敢えて突いてくるものが無い限り、動揺する理由もない。


声色や体格の問題もそうかもしれないが、結局の所、肉体の性に引きずられた長い時間や、理想の肉体に宿れていない事に起因する欠落が、どうしようもなく彼らの精神を肉体の性の側に引き寄せている。私にはそのように思われる。


最後に、異常者の扱いについて話したい。


LGBTは異常なのか否か?と問われたら、私は異常であると答える。だが、問題は彼らが異常者であるかではない。


異常者とはどのような存在で、その事が何故問題なのか?差別とは一体何か?恐らくこの事を問わずしてLGBTの問題は解決しない。


精神と肉体の関係を考えた際に紹介した本「異常の構造」の記述を軸にざっと説明すると、異常とは大きく分けて「量的な異常」と「質的な異常」に分けられ、精神の異常は質的なものに分類され「多数者正常の法則」とでも呼ぶべきものが基準となる。


ただ、単に多数者と異なるというだけで言えば、血液型がRh-であるとか、内臓逆位層で心臓が右側にあるとか、およそ差別の対象にはなり得ない。


LGBT当事者は「性的少数者」である故、私は彼等を異常と考えるわけだが、どうにも現実社会で使われる「異常」という言葉には「劣等」というニュアンスが含まれるらしい。これが問題を複雑にしている。(個人的には「量的な異常」のニュアンスも込みで異常=劣等とは全く思っていないのだが、残念ながら私は世間とずれているらしい。)


誰しも自分自身を劣等者だとは思いたくない。また、仮に劣等者であったとしても人間として差別されるのは不当であろう。しかし一体全体LGBT当事者は何をもって「劣等者」と判断されるのだろうか?


木村敏氏曰く、精神の異常は、けっして或る個人ひとりの中での、その一人にとっての異常としては出現しない。それは常にその人と他の人々との間の関係の異常として、つまり社会的対人関係の異常として現れてくる。


現代社会に生きる殆ど全ての人間は、剥き出しの自然状態からは大分離れた、きわめて合理的に制御された、安全な社会に生きている。そんな安全な社会にあって、人々の生活の脅威となる異常は、解明され、制御され、或いは排除されていく。


その生活の脅威になるという、多数派の人々の社会的判断が、異常者達を「劣等者」と見なす理由だろう。一個人としての資質・能力はほぼ関係ない。逆に言えば、人々の生活の脅威にさえならなければ、解明も制御も排除もされないわけだ。


故にLGBT問題に関わる人々の主張も自然と「誰に迷惑をかけるでもない」「我々の自由は他の人々の自由を侵害しない」とか「制度を悪用する様々な犯罪が跋扈する」「性的倫理・宗教的倫理に反し社会に混乱を招く」といった内容になる。


LGBTの当事者たちが一体どの程度を迷惑だの自由だのと考えているのかは私には解らない。彼らに統一の見解は無いのかもしれない。ただ、トランス女性なる肉体的男性がスポーツの世界で女性の領域に踏み込んできたり、トイレや浴場で女性たちを不安にさせ、或いは屡々事件を起こしたりすれば、やはりそれは規制すべきであろう。


LGBTに関する問題は多岐にわたり、一体何処までが自由として認められ、何処までが社会を混乱させるのか、その結論を出すのは難しそうである。恐らく当事者と多数者の意見は平行線のまま終わる。


その都合「劣等者」のレッテルも剝がせないままになるかもしれない。


しかし今の様な方針のままLGBTの権利を法制化する位なら、法的に曖昧な状態のまま「劣等者」ではない「異常者」として、さも当たり前のような顔で生きる強さと、仮に「劣等者」を前にしても差別をしない優しさを持って生きる事を目指すべきだろう。


そしてそれはLGBT当事者のみならす全ての人に求められる。


…精神の異常は合理的社会に対する剥き出しの自然であり、法律的決着はその社会の合理性を守る為の冷たい割り切りである。


このバランスを理解せずに社会を法に従えようとすれば、社会は恐るべき結末を迎える。


LGBT問題で言えば、剥き出しの自然が合理的社会を破壊するか、合理的社会がより強烈な差別でLGBT当事者を排除するか、いずれかになるだろう。


そんな事はLGBTの当事者であろうがなかろうが、人並みの知性理性を持つ人間であれば容易に察しうる筈であるが、自由と平等に対するうすぼんやりとした信頼感が、それを論理的に考え、理解し、説明しようとする意志を挫いてしまっている。


極端な自由・平等は、真の自由・平等から果てしなく遠いものであり、固定観念とは概ね常識と同義である。


これらの言葉を手前勝手に使いこなし、浅はかな考えをさも知的・道徳的なものであるかのように喧伝する詐欺師達こそが、我々が真に戦い、解明・制御・排除すべき対象である。


そんな者達に惑わされる事無く、正常であろうが異常であろうが一先ずはありのままの自分と他人を愛し、固定観念まみれの常識的社会との折り合いをつける道をゆっくり考える事が、我々を最も良い結末へと導くだろう。

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