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夏の素謡と仕舞の会

  • 執筆者の写真: 小町
    小町
  • 2023年7月20日
  • 読了時間: 4分

【コラム】 関西支部 小町



そとは朝から生憎の雨である。バスを降りてから能楽堂までの一本道、向こうにみえる比叡山の麓は濃く霞んでいた。ふと、道のわきに目をやると、木槿の花が雨に濡れて凛々しく咲いている。


「素謡と仕舞の会」はいわゆる「能」が演じられるのではなく、お能を完成させる一部、「謡」と「舞」が上演される会である。「素謡」とは、能の謡本(台本)を舞台の上で演じるもので、舞や囃子方(小鼓や笛、太鼓)は出てこない。紋付袴の能楽師らが、一つの曲目をまるまる謡う。それから、「仕舞」は、これも紋付袴でお面や装束、囃子方は一切つけず、一曲の見せどころのみ、謡に合わせて舞う。実は、会の数日前まで、私は「素謡」も「仕舞」もどんなものかよく知らず、とにかく大きな能舞台と、不思議な能面、煌びやかな衣装ばかり想像していた。


「いつもの」能さえ見たことがないのに、素謡や仕舞が楽しめるかどうか、少し心配しながら能楽堂の席に着いた。会館のロビーで販売されていた、小さな謡本を手にとってちょっと目を通し、それから目の前にある圧巻の舞台を見つめ、再び謡本に目をやり....と、そわそわした気持ちで開演を待った。


十一時。舞台の上手にある、茶室のにじり口のような小さな扉から、紋付袴の男たちが腰をかがめてそろそろと舞台に出てきた。前に四人、後ろに四人、皆が正座し、腰に差した扇を抜いて「素謡」がはじまった。



……これは八瀬の山里に一夏を送る僧にて候。ここに何處とも知らず女性一人。毎日木の実爪木を持ちて来り候。今日も来たり候はば。如何なるものぞと名を尋ねばやと思い候ふ。…



驚いたのは、謡が「幽玄」や「秘すれば花」のような朧げで、遥かな感じ、あるいはよく言われる「お経」のような感じだけでなく、むしろ、観阿弥、世阿弥が武士の世のなかで「能」をつくりあげてきたことを思わせる勇ましさ、力強さをも備えていたことだった。けれど、謡本には経文とおなじ発声の記号がつけられており、全体としては「お経」にとても近いと思う。私は、そのお経のような謡を聴きながら、物語の景色を想像した。本来、そこには、私たちの気持ちまで鼓舞させる囃子方がいて、絢爛みやびな装束を着た、小野小町や深草少将や僧侶がいるのであろうが、今日はいない。未知の時代の人物、景色を想像するのは思っていたほど容易いものではなかった。



琵琶の弾き語り、平家物語の一節を、私は前に聞いたことがあり、その時、目のまえには大きな海が満ちて広がり、源氏の舟が月明かりに照らされて一筋に進んでいた。もちろん、ここには琵琶の音の響きもあったけれど、おなじ「語り」でも景色を想像することの難しさが違うのは、ひとつには、琵琶の語りより、能の謡の方が単調なことが挙げられると思う。が、それよりも大きな違いとして、琵琶は「聴くもの」、能は「見るもの」として発展してきたことがあるのではないか。


「見る」ということにつけて、お能が不思議な、洗練された芸能だと思うのは、視覚で捉えられるものでさえ「抽象的」につくられており、現実世界をそっくりそのままには再現していないことである。たとえば「お面」。たとえば「小道具」。たとえば「舞」。すべて、あるものの本質だけを抽出したような姿をしており、それゆえ、観客にはそれぞれの想像の余地が残されている。謡を聴き、頭に浮かぶぼんやりとしたイメージ、実は、そのぼんやりしたイメージをそのまま視覚化したものが「能」なのではないか、と素謡を聴くうち、私はそんな気がしてきた。鮮明に頭に思い描いていると思うことも、実は、お能のようにぼんやりしたものなのかもしれない。いや、本当は、そのぼんやりしたものこそ、はっきりと全てを映し出しているのではないだろうか。


私たちは、あまりにも目に見えるものばかりを信用しすぎて、ぼんやりしたものが含めもつもの、その存在を忘れかけている。多くの解説や説明、写真や動画で、あらゆることを簡単に知ることができるために、それらのまわり、それらの向こうにあるものを見ようとすることが少なくなっている。が、黒い雲が空を覆えば、私たちには「ああ、くるな」と、突然の夕立を予想することだってできる。これは、超能力でも幻想でもなく、本来人間に備わっているはずのれっきとした能力であると思う。初めての能楽堂で、豪華な衣装も、不思議なお面も見ることがなかったけれど、それだけに、装束やお面など、「目に見えるもの」に思いが及んだり、お能においてはそれらでさえ、「イメージ」にとどめられているのではないかと思ったりした。


能楽堂を後にする頃、時計の針は夕方四時を回っていた。雨はやみ、生暖かい湿気だけが残っている。楽しかったかと聞かれると、それはわからない。面白かったかと聞かれると、それもあやふやである。が、また見に行きたいかと聞かれれば、きっとまた観に行きたい。何やらはっきりわからないものが私の気を惹いた。その「はっきりわからない」ところが、お能の魅力なのかもしれない。


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