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大島紬展にて

【コラム】 関西支部 小町



先日、いつもお世話になっている呉服屋さんから案内をいただき、京都で開かれた大島紬の展示会に行ってきました。前日の夜から大寒波が日本列島を襲っており、京都でも時折雪が舞っていました。

コートの上で溶けかかった雪をはらって会場に入ると、奄美大島から遠路はるばるやってきた三十ほどの反物が、私たちを歓迎する様に半円形にずらりと並んでいました。黒、茶、藍、白、薄紅の絣糸が織りなす模様の温かさは南国の土の香りを漂わせ、私は外の寒さを忘れて会場を回りました。



大島紬は、ゴブラン織り、ペルシャ絨毯と並び、世界三大織物の一つとして数えられています。

貫禄すら感じさせる落ち着いた光沢は、織られる糸が、車輪梅の木片から煮出した液で何度も染められた後、粒の細かい泥で再び染められることによって生まれます。



会場では大島紬の織り子さんが機を織って見せてくださり、初めて見る大島紬の機織りの仕事が想像以上に地道なもので、私は驚いたり、感銘を受けたりしました。

既に、図案通りに柄が染められている絣糸を織り合わせるため、織りでの失敗があると、糸から作り直さなければなりません。

現在、大島紬は全工程が分業で行われており、糸作りから反物が一反織り上がるまでには、およそ一年かかるそうで、工程の最後の仕事を担う織り子さんたちの責任は重く、それゆえ、大変な集中力が必要とされます。

織り子さんは調整針という小さな針を手に、強すぎず、弱すぎず、切れぬよう、弛まぬよう、柄のずれに気をつけながら機を織り続けてゆきます。

「大変な仕事です。」という織り子さんの声は明るく、私はどことなく頼もしさを感じました。


朝から晩まで織り続けても、紬を一反織り上げるには、ふた月かかるそうです。

細やかに機織りが進められて行く様子を目の当たりにし、奄美大島という日本の小さな島で、このような仕事が息づいているということを嬉しく思いました。



古く、奄美大島は女神の阿摩彌姑(あまみこ)と男神の志仁禮久(しにれく)によって造られたと伝えられています。

一説には、この神々から穀物の栽培や機織りの技術などを授けられたといい、美しい海に囲まれた暖かい島に年中生い茂る桑の葉は、島の養蚕を盛んにしました。

木片の液で染めた糸を、さらに泥で染めたときに起こる化学反応を使って糸に色を出したり、糸を染めるための織り(防染のための織り)と、布を作るための織りの二回も「織り」という作業があるということなど、知れば知るほど「神業」と思わざるを得ない工程で大島紬は作られ、伝えられてきました。



世界に類を見ぬ独特の技術を今日まで継承しているのは、小さな島の住人、とりわけ島の母娘たちでした。



かつて、島の娘たちは母や祖母から、糸づくりから製織や裁縫まで、夜なべをして染織りの手ほどきを受けました。細かい作業を根気よく続け、丁寧に織り上げた反物は一人前の娘の証で、その反物や着物と一緒に嫁いで行ったといいます。


機織りを見せてくださった織り子さんのお母さん、おばあさんも織り子さんだったそうです。

織り子さんのおばあさんが子育てをされていた頃は、大島紬を織る仕事で子供を大学まで通わせたという話も聞きました。が、今や、着物を着る人も少なく、まして、高級品である大島紬を仕立てる人が多勢いるわけではありません。そんな中でも、大島紬の製織の仕事を続けられ、文化を絶やさず繋いでいる織り子さんには、自然と感謝、尊敬の気持ちが生まれます。



ほぼ全ての工程が手仕事によって行われるこの仕事が、大量生産、大量消費社会の中で途絶えてしまうと、この先、一体誰がこの様に入り組んだ、精巧な手仕事を生み出せるでしょうか。手間のかかる作業や技術の中に神代から続く叡智が秘められています。

その叡智、神業を受け継ぐのが人間業、ひいては人間技であるということを、織り子さんの手仕事が教えてくれました。


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