塹壕の中に無神論者はいない
- poisonfrog777
- 2023年11月10日
- 読了時間: 3分
更新日:4月28日
【コラム】東京支部 田尻潤子(翻訳業)

タイトルは、敵兵の攻撃から身を潜めるような状況にいれば人は誰しも神を求めるだろう――これまでそうしてこなかった者でさえも――という意味の、英語圏でしばしば使われる格言だ(1)。「人間とは神を必要とする生き物である」ということが「神が存在する」根拠とはならないが(2)、少なくともこの言葉は人間の本質をよく捉えていると私は思う。
神を信じて迫害される者は過去にも現在にもいるが、2015年にリビアでキリスト教の一派の集団がISに首を刎ねられるとき、「天国に行ける」と思っていたからなのか、あまり怯えていなかったそうだ(斬首場面は撮影・公開されていた)。人間の視点から見れば悲劇としか思えないこの出来事は、「神の視点」を(畏れ多くも)想像してみると必ずしもそうではなくなる。もしかすると神は殉教者たちの魂に「ようこそ。君たちは既に地上での使命を果たしてしまったから、わたしがこっちに招いたのだよ」なんて語っていたかもしれない。
故・西部邁氏は神の存在や宗教全般に否定的な見解を示していたが、父君は臨終のさい身体に酷い痛みがあったものの念仏を唱えることで耐えられたらしい。西部氏は「宗教の効果というものは、認めなければならない」と著述していた(3)。
「絶対者」なるものが実際に存在するかどうかはわからないが、多くの人にとって、それはさほど重要ではない。
生きていると様々な問題に直面するが、「神さまは必ず自分を助けてくれる」と信じるだけで、例えば行動や決断に勇気の要る場面で一歩を踏み出せることがある。その結果が自分の希望していた通りにならないことがあっても、そんなときは後にもっと良いものと出会えたりする。それは信心のある者には「神さまが用意しておいてくれた」ものと感じられ、感謝の念や大きな喜びにつながるだろう。また、「人間目線」の例えば10年は長いが、おそらく「神目線」だとそれは一瞬ではないだろうか。そう考えれば「待ち続ける」という苦行も苦行ではなくなるかもしれない。さらに、神が自分のことを見ていると思えば自身の行動に気を遣うようになるだろう。
塹壕の中でなくても、日頃から「目に見えない大いなる存在」を意識して生きること――それが、より良い人生をつくり出す力になると、私は信じたい。
1 "There are no atheists in foxholes." 誰が言ったのかははっきりしていないが(諸説あり)、アイゼンハワー大統領に1954年の所信表明演説で引用されたこともある。勿論これに対し無神論者らの反論も多数ある。言うまでもないが「塹壕」は、極度のストレス・不安・恐怖を感じる状況、死と隣り合わせになっている状況(加護や助けを求めて祈りたくなるであろうことから)のたとえ。
2 「人間の脳が神を求めるよう長い年月をかけて進化した」「宗教的観念は認知の副産物である」といった主張に非常に説得力がある(E・フラー・トリー著「神は、脳がつくった」、ロビン・ダンバー著「宗教の起源 私たちにはなぜ<神>が必要だったのか」、パスカル・ボイヤー著「神はなぜいるのか」などでその根拠が示されている)。
3 「死生論」(日本文芸社)89頁。
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